KUROYA TOMOYA WEB

菊池寛『半自叙伝』p49,p50

 上京当時、そば屋へ行くと、もりかけ三銭と書いてあった。それが、もり三銭かけ三銭と云う意味だとは分からなかった。私はもりかけと云うものがあるものだと思った。私は可なり長い間「もりかけを下さい」と云って註文していた。こんな場合そば屋では大抵かけをくれたものだ。

 私は上京して間もなく、上野山下の『世界』と云う料理店へ友人と二人で上った。むろん、そんな所へ上るのは初めてであった。私達は、品書を見て「わんもり」を註文した。「わんもり」は八銭で、一番安かったからである。すると、女中が「わんもり」だけでいいかと云って訊いた。私達は、それだけでいいと云った。すると、女中がへんな顔をして去った。しばらくして女中が持って来たものを見るとお汁椀だけである。東京では、汁椀のことをわんもりと云うのだった。なるほどわんもりだけを註文するのはおかしいに違いない。

 私は上京する時、曾(かつ)て東京にいた従姉が、東京へ行ったら、親子丼と云うものを喰べて見ろ、それはおいしいものだからと教えてくれた。私は、東京へ来てしばらくしてから、湯島切通しの岩崎邸の筋向こうにある小さい洋食店で、玉ねぎ入りの親子丼を喰べた。それは、実においしかった。従姉の言空(むな)しからずだと思った。私はその後も、金と機会があるごとに、同じ店へ行って親子丼を喰べたものである。

菊池寛『半自叙伝』p49,p50

菊池寛『半自叙伝』p49,p50 菊池寛『半自叙伝』p49,p50 Reviewed by 黒谷知也 on 12/05/2014 Rating: 5